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Description:
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バスを降りると珈琲の香りがした。初夏の風に、懐かしい酸味とほろ苦さが混じっている。少し寄っていくか。僕は重いスーツケースを転がし歩き始めた。香りに導かれるままに老舗珈琲店の茶色い扉に手をかける。押し開けると、懐かしい香りは思い出も連れて、僕の中に流れ込んできた。「行く手には神戸港、振り向けば六甲山」。あの頃彼は、この街のことをそう言っていた。堅物のパティシエ。彼が一代で築いたパティスリーに弟子入りしたのは何年前のことだったか。デザイナーをあきらめた後に美容師を目指し、それも諦めパティシエに転向した僕を、彼はメレンゲと呼んだ。「お前の夢は食えば溶ける」というわけだ。なるほど、その通り。だけど今、僕はやっと溶けない夢を手に入れてこの街に帰ってきた。メレンゲと僕を呼んだ彼は、もういないけれど。酸味と苦みが交互にやってくる懐かしい珈琲を口に含みながら窓の外の街を眺める。海から山へ、一本の大通りでつながっている。この通りを、クリスマスには幾千ものイルミネーションが彩り、鎮魂と再生の祈りが街を包む。僕は立ち上がり扉を押し開けた。「行く手には海、振り向けば山」僕はどちらへ行くのだろう。きっと、歩き出してみればわかる。スーツケースを転がし、僕は一歩を踏み出した。 |