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聖書……ローマの信徒への手紙9章25−26節(愛されなかった者を愛された者と呼ぶ)
1週間遅れの「日本基督教団 部落解放祈りの日礼拝」です。
日本基督教団では、差別の問題に関わると、「教会は社会運動に関わるべきでない」、「教会には他にやるべきことがある」と難癖をつけてくクリスチャンが必ず現れます。
しかし、「教会は社会運動をするべきではない」という言葉は、1960年代〜1970年代以降のいわゆる「教団紛争」において、保守派の牧師たちが「社会派」というラベリングを用いながらネガティブ・キャンペーンを展開したときの合言葉なのです。要するに、「社会運動などをやっているから教団の信徒の数が減ったのだ」というわけです。
しかし、差別を無くすために力を尽くすというのは、実はキリスト教会にとっては根幹に関わる課題です。その理由は単純で、イエス自身がいわば被差別部落の出身であり、同じよう差別されたり、いじめられたり、嘲られたりして泣かされた人びとに、「今泣いている者は幸いなり!」と解放の福音を宣べ伝えたのが、イエスの活動の根幹にあるからです。
もし、神・イエス・キリスト教に関心を持ち、教会を訪ねてきた人が、自分の真実をカミングアウトして、それでもまるっきり安心できるという環境でなかったら、その教会はイエスの遺志を受け継ぐ者としては相応しくありません。
私たちの教会は、すべての人が真実の自分を安心して肯定されるような場所でしょうか。そのような場所、人の集いでありたいものです。 |