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聖書……ルカによる福音書15章11−32節(「放蕩息子」のたとえ)
イエスの有名な「放蕩息子」たとえ話にすんなりと納得する人は少ないようです。教会に通っている人なら、放蕩の限りを尽くした人でも神は赦して愛し、受け入れるというこの物語を納得しようとしますが、この話を初めて聞いた一般の人は、到底納得がいかない、真面目に父の言いつけを守って働いてきた兄がかわいそうだという風に理解するようです。
ただ、教会に通ってこの物語を何度も聞かされてきた人も、この放蕩息子が陥った窮状は、いわば自業自得、つまり自分が犯した過ち、不道徳、罪ゆえに引き受けた報いであったのだと思っている人は多いと思います。
この放蕩の中身は、現代風に言ってみればアルコール・ギャンブル・セックス・ドラッグと言うことができるでしょう。そしてそれらは、平均的な大人なら、放蕩の限りを尽くすというほどのめり込むものではありません。
逆に考えると、放蕩の限りを尽くし、自分の生活を破綻させるほどのめり込んでしまったということは、この人が何らかの依存症を患っていた可能性があるのです。もしそうだとしたら、この人は罪人だと裁く対象ではなく、救助されるべき対象なのではないでしょうか。そして、この人を愛するのは、神の特別な愛というわけではなく、人間社会なら当然そうあるべき対応なのではないでしょうか。
「放蕩息子」のたとえ話を、ちょっと新しい視点で読み直してみたいと思います。
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